鉄よりつよいもの。(旧)

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「世代の物語」としての『ステーシーズ』

娘。メンバーが出演したミュージカル『少女再殺歌劇 ステーシーズ』は、6月9日2回目の公演を鑑賞してきました。
原作小説は読んでおり、実写映画版も観ていて作品の内容を知っているだけに「あれをどう舞台で表現するのか?」と思いつつの鑑賞だったのですが、「ステーシーズ」という作品に不可欠な残虐な描写を(1ヶ所だけ具体的な“物”を使った場面があるものの)照明や効果音を用いた抽象化したかたちで表現されていることが、ひじょうに納得できました。それは具体的な表現をするよりも、はるかに原作で描かれた世界をきちんと“見せて”いるものだと思ったからです。


内容については、正直、鑑賞からほぼ2ヶ月が経とうとしているいまでもまだ整理しきれていません。さまざまに想いを巡らせられる作品でした。


ひとつ書けば「『ステーシーズ』は“世代の物語”である」と感じました。これは原作や映画版では感じなかったことで、大勢の生身の少女たちが演じることで改めて感じた部分なのかもしれません。
これまでの規範にそわない存在が現れたとき、それを“秩序を破壊する理解不能な異物”として排除しようとする者がいる。一方で、その存在の中に新たな世界を拓く希望を見出す者がいる。そしてその狭間で、兆しに気づきつつも異者としてしか向き合えない者がいる。
異なった立場に立つそれぞれの“世代”が“ステーシー”という存在をどう捉え、どう対峙するのか。『ステーシーズ』はそんな物語でもあるように思えました。


私たちの身近では、舞台『ステーシーズ』のように、突然少女がゾンビ化したりすることはありません。……たぶんね。
でも“ステーシー”を巡る状況になぞらえられる構造は、いまこの現実の中にも確実に存在していると思います。
「そのとき自分はどの立場に立っていられるのか」
そんな問いが、舞台を観ている最中、そして観終わったあともずっと意識のどこかに残っています。
自分は、新しくなにかを拓く立場にはなれないのだろうなという、自分に対するある種の絶望は持っています。でも同時に、兆しに気づく程度の力は持っていたいと思っています。
自分になにかはできなくても、なにかをつなぐためのちょっとした助けぐらいにはなりたいですよね。少女たちを救おうとして銃撃の盾になったホスピタルの先生みたいに。
そうやって、なにかが新しく生まれるための“捨て石”にでもなれたら、人生上等じゃないですか。
ステーシーだけに。
(「ステーシー」と「捨て石」をかけるのは映画版『STACY』のセリフからパクらせていただきました。)