鉄よりつよいもの。(旧)

KKTのブログ『鉄よりつよいもの。』のはてなダイアリー時代(2004年から2017年まで)のアーカイヴです。新規更新はしません。現在は新しいブログ http://kkt.hatenablog.jp/ をたまに更新

過去はどこかにしまっておけ

まだ、『こもれびの中で 2009』の余韻の中にいます。
なにか、普段なら作品と自分との間にあるはずの膜をガッと越えて作品に触れたような、そんな感じがしています。



『こもれびの中で 2009』を観たときに、ある部分で“引っかかり”を感じました。その“引っかかり”について書いてみようと思います。劇をご覧になっていない方にはわかりにくい内容になってしまうのはすみません。


その“引っかかり”を感じたのは、バスケ部部員の上杉の、10年後の場面です。
社会人となり、建設会社のバスケチームで選手として活躍する上杉に、上司である課長はきつい言葉をかけていきます。しかし、課長の部下によって、実は課長が社内で一番上杉を応援していることが明かされる、という場面です。
この部分が、どうしても疑問に感じてしまいました。たとえ本心ではないとしても、応援している相手にあそこまできつい言葉を投げかけられるものだろうか? 特に2回目の観劇では、最初から課長の真意がわかっているからこそ、余計にあの場面を“課長の照れ隠し”として納得することができなかったのです。


その疑問に自分なりの答えを見つけられたのは、2回目に公演を観た帰りの、電車の中でした。
あの場面は、上杉の心象風景だったのではないだろうか?
上に進むために、他人から反感を買うこともいとわずに生きてきた上杉。彼女はいつしか「自分は嫌われても当然、他人は自分に悪意を持っているに違いない」という壁を、心の中に作ってしまっていたのではないか。
課長の投げつけるきつい言葉は、上杉の心の壁の象徴。あの場面は、上杉がようやく壁を作らずに他人の気持ちに素直に触れられた瞬間だったのではないかと思ったのです。



そして、そこからもうひとつの考えに至りました。
もしあの場面が上杉の心の中の描写だとすれば、ほかの場面もまた、誰かの心の中の描写なのではないのか。
誰かの“こうなるはずだった、こうであってほしかった記憶”なのではないのか。




もしかしたら『こもれびの中で 2009』は、私が「見た」よりも、もっと哀しい物語だったのかもしれません。
ただ、たとえそうだったとしても、柴崎カナの笑顔にもう1度出会えたことは、すべての人たちへの救いとなるのだと思います。たぶん。