鉄よりつよいもの。(旧)

KKTのブログ『鉄よりつよいもの。』のはてなダイアリー時代(2004年から2017年まで)のアーカイヴです。新規更新はしません。現在は新しいブログ http://kkt.hatenablog.jp/ をたまに更新

過剰品質という言葉に感じる違和感

ミュージシャン・音楽プロデューサーの佐久間正英さんの『音楽家が音楽を諦める時』と題されたブログ記事が大きな反響を呼びました。
私としては、佐久間さんのブログ自体よりも、ネット上の反応にいろいろと考えさせられるところがありました。


佐久間さんのブログへの反応で「過剰品質」という表現を何度か見かけました。ミュージシャンがレコーディング時に音にこだわったとしても、そのこだわりは多くのリスナーにはわからないのだから「過剰」である――という主張なのだろうと思います。
しかし、ほんとうにそうでしょうか?
たとえばギターの音をレコーディングするときに楽器やアンプのセッティングはどうするか、音を拾うためのマイクをどう置くか。そのような時間と手間をかけた「音の違い」は、リスナーがすぐにわかるものではないかもしれません。でも「どのような音で録れるか」によって、演奏者が弾くフレーズが変わってくることもあるのではないかと思います。
それはギター以外の楽器でも同じですし、ボーカルもどんなマイクを使うか、どんな環境かによって、歌い方が変わっていくことも、さらにはメロディや歌詞に影響を与えることだったあるのではないかと思います。
フレーズやメロディ、歌詞が変われば、これはリスナーにもちゃんと伝わることですよね。
たとえ、レコーディング時の試行錯誤でその曲自体が大きく変わることはなかったとしても、以降の曲作りにそのときの経験が影響を与えることはあるのではないでしょうか。
やはり佐久間さんのブログへの反応で「リスナーが求めているのは“いい音”ではなく“いい音楽”だ」という趣旨のものも見かけました。レコーディング時の音へのこだわりは、どんな“音楽”かには無関係だ、ということでしょう。
そんなことはないと思います。
たとえばビートルズの中期以降の曲のメロディや歌詞やアレンジのアイディアが、レコーディング時のこだわった試行錯誤による技術の裏付けなしに生まれたとは、私は考えづらいです。
レコーディング時の「音へのこだわり」と「演奏される音楽」は、決してそれぞれが独立したものではなく、不可分なものである。私はそう思うのです。


たぶんこの話題、続きます。