鉄よりつよいもの。(旧)

KKTのブログ『鉄よりつよいもの。』のはてなダイアリー時代(2004年から2017年まで)のアーカイヴです。新規更新はしません。現在は新しいブログ http://kkt.hatenablog.jp/ をたまに更新

ミックスと歌詞とココロとカラダの関係

iPodを使うようになってずいぶんになるのですが、それによって得た大きなメリットは、突然古い曲を聴きたくなったときでも、iPodに入れて曲であればすぐ聴けることです。そうやってしばらく聴いていなかった曲を聴くと、新たに気づくことがあったりもします。


久々に安倍さんの『…ひとりぼっち…』を聴いてみました。2004年2月リリースのアルバム『一人ぼっち』の収録曲ですから、もう5年以上前になるんですね。月日が経つのは早いなー。
さて、久しぶりにこの曲を聴いてみて、ボーカルの定位に興味を惹かれました。
この曲は、歌い出しではボーカルが左チャンネルと右チャンネルに大きく振り分けられています。センターには歌声がありません。リスナーと向き合う真正面の位置は空白となっているわけです。
そして、Bメロになると歌声はセンターの位置へと移動してきます。
ここで歌われているのは、次のような歌詞です。

夜中には ため息を
明け方も 眠れず読書
点けっぱなしの フランス映画
どんな お話か 関係ないの

前半2行は左右に振られた声で歌われ、後半2行がセンターに位置する声で歌われています。
この歌詞は、ひとりの女性のモノローグとして読める歌詞ですが、声の定位が変わっていることで、その視点が変化しているような印象が生まれます。
後半では「どんな お話か 関係ないの」と、はっきりと「私」の主観が描かれているのに対して、前半の2行には主観が存在していません。「ため息をつく、読書をする」と、まるでその行為を第三者的に描写しているようにも読めます。この4行のフレーズには主語がありませんが、前半の2行は「彼女は」と三人称の主語を付け加えても成立してしまいます*1
前半と後半でボーカルの定位が変化することで、1歩引いた位置から自分を客観視している視点と、より主観的な「私」の視点という、ふたつの視点間の移動という構造がこの4行の中に生まれているのです*2
そしてそこで生まれた、ひとりの女性の中にふたつの視点が並立しているという構造は、サビでの「カラダ」と「ココロ」を別々に歌うという構造に重なり合っていきます。



とまあ、『…ひとりぼっち…』を聴きながらそんなことを考えたわけです。こんなことを考えたのは、最近私が音楽制作の中でのミキシングという作業に関心を深めているからという単純な理由です。ひとつの曲が完成するまでのいくつもの工程では、そのどの工程においても、曲作りや歌唱や演奏と同じように、あるいはそれ以上に“表現”することが可能なのだと、そんなことを最近は思うのです。

一人ぼっち

一人ぼっち

*1:センターの声の不在が主観の不在の象徴となっているのは言うまでもありません

*2:この構造は2番の歌詞でも同様です